十文字女子学園大学スペシャルコンテンツ

佐々木則夫副学長インタビュー 夢を力に歩む

2011年のサッカー女子ワールドカップで、なでしこジャパンを初優勝に導き、現在、日本サッカー協会の女子委員長として競技力向上に力を注ぐ佐々木則夫先生。2016年から本学の副学長として学生の指導に当たる佐々木先生に、授業で大切にしていることやこれまでの生い立ち、今後の展望などについてさまざまなお話を聞きしました。

目次

第1回
サッカーのノウハウで自ら考え行動する女性を育む
第2回
山形から東京へ 伸び伸び育った子ども時代
第3回
サッカーを続けながら学生生活を謳歌
第4回
Coming soon...
第2回

山形から東京へ 伸び伸び育った子ども時代

――佐々木先生の生い立ちについてもお話をお聞かせいただけますか。先生は山形県のご出身とお聞きしています。どのような子ども時代を過ごされましたか?

私は1958年5月24日、山形県尾花沢町(現・尾花沢市)に生まれました。私はひとりっ子で、祖母と両親の4人で暮らしていましたが、3歳の頃、親父が自分で土木建築の事業を興すことになり、家族で東京に移り住むことになりました。でも、私は山形が好きでしたし、祖母が一人で暮らしているのも気にかかって。小学校に入学する半年前に、私だけ尾花沢に戻ることになりました。行き交う人たちがみんな知り合いで、友達もたくさんいたので毎日楽しくて。だから、たまに両親が山形に帰省して、また東京に戻っていく日は少し寂しくなっても、翌日になればもうケロっとしていました。それくらい、山形での暮らしが楽しかったですね。

でも、小学校1年生の冬に祖母が亡くなってしまい、両親が暮らす東京に引っ越すことになりました。転校先の板橋区の小学校では、言葉が違うし、知らない人だらけのなかで、戸惑ってばかりでした。例えば、国語の教科書に「それで」と書いてあるところを、つい、方言のくせで「んで」と読んでしまって、クラスメイトからからかわれたりもしました。そんなある日、体育の授業でかけっこをしたら、誰も私に勝てなくて「すげー!」と言われるようになりました。それから友達が増え、いつも遊んで家に帰るときは友達と一緒。私たち一家は、土木建築の作業員宿舎に住んでいて、そこには従業員のためのご飯がたくさんあったので、それをみんな知っていて、遊び終わった後も付いてくるんです。そしてよく、みんなで一緒におむすびを食べましたね。

サッカーとの出会いは小学3年生のとき

――サッカーとは、どんなかたちで出会ったのですか?

サッカーと出会ったのは、小学3年生の夏に埼玉県蕨市に引っ越したときのことでした。前の学校では足の速さで打ち解けることができたので、新しい学校でも「足で勝負しよう!」と思っていて、早速、昼休みにみんながやっていたボール遊びに加わりました。足でボールを蹴るのがとても楽しくて。「お前、サッカーうまいな」とみんなに言われてたちまちヒーローになりました。それからはすっかりサッカーにのめり込み、5年生になると地元の少年団に入って本格的なサッカーの練習を始めました。

そこからまた引っ越しがあり、1971年に川口市立芝中学校に進学すると、迷わずサッカー部に入部しましたが、途中、ケガに悩まされて試合にはなかなか出場することができませんでした。ただ、2年生のときには県選抜のセレクションに選ばれたこともあって、ケガさえ治れば・・・という自信はありました。「高校では、サッカーを思い切りやりたい!」という思いが募って、サッカーの強豪校・帝京高校に進学してサッカー部に入部しました。

サッカーの名門校で厳しい練習に耐える

――帝京高校といえば、サッカーの名門校ですね。練習はやはり厳しかったですか?

強豪校なのでサッカー部に入部する人が本当に多くて。私の年は100人ほどの1年生が入部しましたが、多すぎるので人数を絞り込もうとして、さまざまな試練が与えられました。初めはボール磨きしかやらせてくれず何人かが辞めていくと、その後は走り込みなどの厳しい練習が課されてまた数人辞める、といったことを繰り返し、最終的に残ったのは30人ほどでした。実は、私自身も途中、辞めようと思い、練習を休んだことがあったのですが、同じ中学からサッカー部に入部した3人の友達が、「辞めるな」と引き留めてくれたおかげでサッカー部に残ることができました。その3人の言葉がなかったらどうなっていたか。彼らは今でも大切な友達です。

――減ったとはいえ、1年生だけで30人というなかでのレギュラー争いは、熾烈なものだったのではないですか?

そうですね。とにかくピッチに立ちたかったので、1年生の頃から、顧問の先生が帰るまで、自主トレを続け、「お前は誰だ。早く帰れ」と言われると、練習着に書いてあった「佐々木」という名前がよく見えるようにアピールしたり、ポジション別に練習するときには、DFの希望者が少なかったので、「できます」と手を挙げたりと、必死にアピールしました。練習にも必死に食らいついていくと、秋頃から試合で使ってもらえるようになり、1年生ながら全国大会の登録メンバーに入ることができました。1年生で選ばれたのは2人だけ。同学年で私よりうまい選手はいましたが、恐らく顧問の先生が、私の熱意やリーダーシップを買って、期待を込めて選んでくれたのだと思います。

そして、1974年の全国高校選手権では見事、優勝を果たしました。試合には出られませんでしたが、試合前後のミーティングや、試合中のベンチの雰囲気などを肌で感じ、先輩が全国制覇するのを目の当たりにすることができたのは、本当にいい経験でした。1年生は2人だけだったので、先輩たちの使いっ走りとしてもみっちり鍛えていただいたのもいい思い出です。

――1年生で登録メンバーに選ばれたのはすごいことですね。その後の活躍についても教えてください。

2年になると、右サイドバックのレギュラーを獲得しましたが、この年は夏の全国高校総合体育大会(インターハイ)で準優勝、冬の全国高校選手権では都大会で敗れて出場できず。全国制覇の夢は叶いませんでした。3年生になってキャプテンに選ばれると、「自分たちの代で全国制覇を果たしたい」という思いがさらに強くなりました。

当時は今ほどサッカーに関する情報も多くはなく、サッカーの理論的なことがあまりよく分からないまま練習をしていましたが、全国制覇を果たすためにも、もっとサッカーのことを学びたいと思うようになり、ある日、雑誌で見た「チャナディのサッカー」という技術書の日本語版を図書館で見つけました。読んでみると、「なるほど!そういうことだったのか」と理論がよく分かって、目からうろこでしたね。サッカーの実力は3年生より2年生の方が上だったのですが、私がサッカーを理論的に説明すると、「さすが先輩」と尊敬してもらえて。キャプテンとしてチームを統率していくためにも、理論を学ぶことはとても大切だなと実感しましたし、サッカーの指導者をやってみたいなと興味を持ったのも、このときのことでした。

3年生のときにインターハイ初優勝!

――全国制覇の夢は叶いましたか?

はい。3年生のときに新潟県で開催されたインターハイで初優勝を果たすことができました。そのとき、親父が初めて試合を見に来てくれて。親父の目の前で初優勝できたことは、本当にうれしかったですね。

優勝したこともうれしかったのですが、よく覚えているのが、インターハイ後に行われる学年対抗試合です。1、2、3年の3チームで対戦し、1位にはペナルティはありませんが、2位は1時間、3位は2時間、グラウンドを走らなければなりませんでした。だから、私たち3年生は「絶対負けたくない」と、前日の夜から集まって2年生に勝つための作戦を練りに練って、当日を迎えました。守りを徹底して、相手の隙を突いてカウンター攻撃でゴールを狙うという作戦を実行したら圧勝することができました。もともと、新チームの中心となる2年生を鼓舞するための試合でもあり、負けたことでよりいっそう監督に絞られた2年生は、帰り道の田んぼのあぜ道で力尽きて寝てしまって。農家の皆さんが、トラックに彼らを乗せて運んでくださったという思い出があります。

その後、東京都選抜として国体に出場。高校選手権は優勝を果たせなかったものの、ユース代表候補合宿のメンバーに選ばれるなど、さまざまな経験をしました。帝京高校サッカー部での思い出は、今も鮮明によみがえってきます。

――ありがとうございました。次回は、大学、社会人時代のエピソードから、サッカー日本女子代表監督としての活躍についてお伺いしていきます。

(次回へつづきます)
2022.8.10

PROFILE

佐々木則夫(ささき・のりお)先生プロフィール

1958年山形県生まれ。帝京高校、明治大学とサッカー部で活躍。大学卒業後はNTT関東(大宮アルディージャの前身)で社員として働きながらプレーし、日本リーグ2部昇格を果たす。33歳で現役引退後、大宮アルディージャの初代監督などを経て、2007年に日本女子代表の監督に就任。男女通じてアジア初のワールドカップ優勝、ロンドン五輪銀メダルなどの戦績を残した。退任後、準備室長として日本初の女子プロサッカーリーグ「WEリーグ」の設立に尽力するなど、女子サッカーの発展に貢献し続けている。