十文字女子学園大学スペシャルコンテンツ

佐々木則夫副学長インタビュー 夢を力に歩む

2011年のサッカー女子ワールドカップで、なでしこジャパンを初優勝に導き、現在、日本サッカー協会の女子委員長として競技力向上に力を注ぐ佐々木則夫先生。2016年から本学の副学長として学生の指導に当たる佐々木先生に、授業で大切にしていることやこれまでの生い立ち、今後の展望などについてさまざまなお話を聞きしました。

目次

第1回
サッカーのノウハウで自ら考え行動する女性を育む
第2回
山形から東京へ 伸び伸び育った子ども時代
第3回
サッカーを続けながら学生生活を謳歌
第4回
Coming soon...
第3回

山形から東京へ 伸び伸び育った子ども時代

――帝京高校卒業後は明治大学に進学されましたね。大学生活はどうでしたか?

1977年4月に明治大学に入学しました。文学部の英米文学専攻でしたが、これが大変で。その頃、午前中にサッカー部の練習があったのですが、出席日数が足りないと試験を受けられない授業が多かったので、練習との両立にとても苦労しました。英語が得意なわけでもなかったので、勉強についていくのもとても大変でした。

でも、クラスメイトたちと本当に仲が良くて楽しかった。サッカー部の練習は月曜日がオフだったので、日曜日の試合が終わると夕方からが自由時間。そこから月曜日の夜にかけて、クラスメイトと必死に遊びました。寮生活でしたが、日曜日には両親が営む作業員宿舎に帰って、大学の友達といつも5、6人で泊まって。おふくろがおにぎりを作ってくれたりしました。友人たちは卒論なんか朝飯前ですが、僕はとっても苦労していたので、みんなが「ノリオを卒業させる会」をつくって、いろいろサポートしてくれたのもいい思い出です。そのときの苦労が相当印象深かったのでしょうね。未だに試験や発表で冷や汗をかく夢を見ますよ。勉強の大変さはありましたが、本当に楽しい大学生活でした。

――卒業後の進路はどう考えていましたか?

模範となるような先生がいたので、指導者になりたいなという思いがありました。自分には、英米文学は向いていなかったなと感じていて、2年生くらいの頃から、他の大学の大学院に入って体育の教員免許を取りたいと考えるようになりました。でも、オイルショックの影響で父親の会社の経営がうまくいかず、自分も家計をサポートすることを考えないといけない状況になってしまったので、大学院に進学して教員免許を取ることをあきらめたんです。

――それで卒業後は社会人に?

日本サッカーリーグ1部のヤマハ発動機から、サッカーに専念できるかたちでの誘いもありましたが、家庭の事情もあったので、とにかく働いて稼がなければという思いで1981年4月に電電関東(現NTT東日本)に入社しました。電電関東のサッカー部は、日本リーグ2部の下にある地域リーグの関東リーグ所属で、決して上位のチームではありませんでしたが、「仕事もやりながら、サッカーも頑張りたい」という思いと、「ここなら将来は会社の仕事と指導者のどちらも選択できる」という思いがあったので、ここで頑張ろうと心に決めました。

最初に配属されたのは、浦和料金局でした。ここは加入者に送る請求書を作成する部署で女性が7割を占めていました。今から思うと、女性が多い職場で仕事をしたことは、後になでしこジャパンの監督になったときに大いに役立ったと感じています。

仕事もサッカーも全力で

――お仕事とサッカー部の両立は大変ではなかったですか?

9時から17時ごろまでしっかり仕事をして、サッカーの練習はその後でした。近くの河川敷のグラウンドは照明がないため、使えるのは明るいうちに練習をする週末だけ。平日は、ナイター設備のある別のグラウンドまで通いましたが、市営のものだったので、抽選に当たらないと使えず、駐車場でボールを蹴る日もありました。恵まれた練習環境ではなかったですし、仕事に全力投球してからの練習は体力も気力も必要でしたが、仕事とサッカーの両方に意欲的に取り組んだ、充実した毎日でした。

そうこうしているうちに、父親の仕事も次第に回復し始め、私も家計のことを心配しないでよくなりました。そんな頃、会社のサッカー部の先輩の奥さんの同級生だった妻と出会い、出会ってから2年足らずで結婚して長女を授かりました。

その後、妻が脳炎を患い、サッカー部を2年間休部しましたが、「私のためにサッカー人生が終わったと思われるのは嫌」という妻の後押しもあって、1986年、1年間の約束で現役復帰することになりました。そのときに主将を任され、チームは関東リーグ2位に、全国地域リーグ決勝大会でも全勝し、日本リーグ2部に昇格を果たしました。すっかりサッカーにのめり込んで「1年の約束」はどこへやら。87年はコーチ兼主将、88~89年はコーチ兼選手になりました。結局その後もサッカーを続け、社会人として日本リーグ2部で3シーズン、主にボランチやスイーパーとしてプレーし、33歳で引退しました。

――引退後は指導者の道に進まれたのですか?

引退後はサッカー部でコーチを務め、1997年に監督に就任しました。実はこの頃、会社はサッカー部を廃部にする方針でした。だから私の役割は部の幕引き。選手がプロを希望するのか、会社に残るのかといった意思確認をして調整を進めていましたが、当時の埼玉支店長の意向でサッカー部をプロ化することになり、98年に大宮アルディージャが誕生しました。廃部からの急転直下でした。私は、普及強化部長としてチームを支えた後、2005年の夏に、なでしこジャパンの大橋浩司監督からコーチ就任の誘いを受けて、24年間勤めたNTT関東(1985年に民営化で電電関東から社名変更)を退社し、2006年1月からコーチ兼U17監督を引き受けることになりました。

――いよいよなでしこジャパンの指導に携わることになるのですね。

私がなでしこジャパンのコーチを引き受けたのは、監督を務めるために必要なS級ライセンスを受講したときに、同期で当時なでしこジャパンを率いていた大橋浩司監督からのオファーを受けてのことでした。引き受けるに当たって、半年間、チームの活動を視察、検証した結果、私が一助になれるだろうと自信を持つに至りました。その理由は、これまで男子の社会人チーム、ユースチームを率いた際の選手層とタイプが似ていたからです。なでしこは、それまで私が携わったチームと同様に、フィジカル面において突出した選手がいない、どちらかというと攻守一体となって、組織的にハードワーク をしなければ、結果が望めないタイプでした。これまでにも、似たタイプのチームを指揮し、攻守の戦術を配備して戦いながら成果を出してきた経験から、なでしこジャパンでも力になれるのではないかと脈を感じました。

2007年2月にコーチ兼U20の監督を引き受け、U20がいち早く成果を出し、同年12月からなでしこジャパンの監督にも昇格しました。そこで、チームの特徴を踏まえた「目配り、気配り」の戦術へと転化しました。コツコツ取り組むことで生まれる技術力を生かしつつ、私の経験を選手に浸透させるための強い意志を伝えて理解させました。そうすることで、選手主導でオートマチックに機能すれば世界を驚かせるチームになるのではないかと、ワクワクしていたのをよく覚えています。

――「選手主導」のスタイルを確立するためにどんなところを工夫されましたか?

サッカーは、監督が指示を出すティーチングスタイルではなく、選手らが自分たちで状況を考えて解決法を見いだしていくコーチングスタイルです。選手自らが解決法を考える方向に導くというやり方は難しいし、時間がかかります。本当は、ティーチングで正しい答えを教えてしまえば早いのですが、自分で考えずにやっても身に付くわけではありません。自分で考えて、判断するというステップを踏まないと本当の意味で理解できたとは言えないので、例えば、「今どうして右にパスを出した?」と聞いて、考えさせながらやる。その答えを聞いて、「そうか。でも左もあるかもしれないよ」と投げかける。そうすると、もうちょっと視野を広げることが必要だということに気付いたりします。そういった“自ら考える”訓練を繰り返してきました。

自ら考える力がたぐり寄せた世界一

――そしてついに2011年のワールドカップ(W杯)の決勝でアメリカに勝利し、見事、優勝を成し遂げられたのですね。

アメリカとの決勝戦は選手の力と力、意地と意地がぶつかり合う激戦でした。延長で1点リードを許しながらも、澤穂希のゴールで同点に追いつき、PKにもつれ込んだ末にもぎ取った執念の勝利でした。W杯には「東日本大震災で被災した人たちに少しでも希望を与えたい」と臨みましたが、世界一になれたことは、心の底からうれしかったです。

その後、なでしこジャパンが12年のロンドン五輪で銀メダル、15年のカナダW杯で準優勝と、結果を出し続けられたのは、選手全員に自分で考える力が備わっていたから。だからこそ今、十文字学園女子大学で「自分で考える力を身につけてもらいたい」という思いを込めて、学生の皆さんに向き合っているところです。

――次回は佐々木先生の現在の活動や、大切にされている言葉などについてお話を伺います。

(次回へつづきます)
2022.9.9

PROFILE

佐々木則夫(ささき・のりお)先生プロフィール

1958年山形県生まれ。帝京高校、明治大学とサッカー部で活躍。大学卒業後はNTT関東(大宮アルディージャの前身)で社員として働きながらプレーし、日本リーグ2部昇格を果たす。33歳で現役引退後、大宮アルディージャの初代監督などを経て、2007年に日本女子代表の監督に就任。男女通じてアジア初のワールドカップ優勝、ロンドン五輪銀メダルなどの戦績を残した。退任後、準備室長として日本初の女子プロサッカーリーグ「WEリーグ」の設立に尽力するなど、女子サッカーの発展に貢献し続けている。