公開講座実施報告(2024)
9月14日(土)に、公開講座 「平安朝の恋文-書道と文学のコラボレーション-」を開催しました
赤間恵都子名誉教授(左)と鷹野理芳氏(右)
9月14日(土)に、書道家で本学の非常勤講師である鷹野理芳氏と本学の赤間恵都子名誉教授を講師に、公開講座「平安朝の恋文-書道と文学のコラボレーション-」を開催しました。
今回の講座は、『源氏物語』をテーマとして物語に登場する姫君の筆跡の再現を続けてこられた鷹野先生と、平安女流文学を専門にする赤間先生のお2人の熱い思いにより実現したコラボレーション企画となりました。
本講座では、「恋文」をテーマに、それぞれのアプローチから「平安朝の恋文」を読み解きました。
今回の講座は、『源氏物語』をテーマとして物語に登場する姫君の筆跡の再現を続けてこられた鷹野先生と、平安女流文学を専門にする赤間先生のお2人の熱い思いにより実現したコラボレーション企画となりました。
本講座では、「恋文」をテーマに、それぞれのアプローチから「平安朝の恋文」を読み解きました。
当時の文の形式を紹介、文の折り方も様々でした
当時は野菊が主流でしたが、今回は大き目の菊を使い説明
講座の中で、鷹野先生が文(ふみ)をその場で再現する試みもありました。再現した文は、『枕草子』に書かれている「山吹の花の文」です。中宮定子から清少納言のもとに届きました。
届いた文は次のようなものでした。「紙にはものも書かせたまはず。山吹の花びらただ一重を包ませたまへり。それに、『言はで思ふぞ』と書かせたまへる」。現代語訳をしてみると「紙には何もお書きあそばされず、山吹の花びらただ一重をお包みあそばしていらっしゃる。それに『言はで思ふぞ』とお書きあそばされている」と解釈されます。「言はで思ふぞ」とは、「言葉に出さなくても、あなたのことを思っています」という意味です。
届いた文は次のようなものでした。「紙にはものも書かせたまはず。山吹の花びらただ一重を包ませたまへり。それに、『言はで思ふぞ』と書かせたまへる」。現代語訳をしてみると「紙には何もお書きあそばされず、山吹の花びらただ一重をお包みあそばしていらっしゃる。それに『言はで思ふぞ』とお書きあそばされている」と解釈されます。「言はで思ふぞ」とは、「言葉に出さなくても、あなたのことを思っています」という意味です。
今回は造花の山吹の花を用い、鷹野先生が「言はで思ふぞ」と実際に書くところを、書画カメラを通して参加者にも見ていただきました。「文中の『一重』という表現は、5弁ある花びら1つ1つに1文字ずつ記した可能性もあるが、1枚という意味でとらえ、小さな花びらの中に『言はで思ふぞ』と書いた可能性もある」という赤間先生の解説を聞きながら、鷹野先生がその実演を行う様子に、会場からは大きな拍手が起こりました。
5弁の花びらに1文字ずつ記した様子
写真右側は直径1cmの花びらに記した様子
さらに講座の最後には、講師それぞれが選んだ恋文をご紹介いただきました。鷹野先生は、『紫式部日記』から紫式部と藤原道長との恋文を、赤間先生は、『栄花物語』から皇后定子と一条天皇の恋文を選びました。鷹野先生は、「紫式部の直筆の書物は残っていないが、文や内容から、紫式部の仮名に対す考え方を学べる」と、書道家ならではの思いを語り、赤間先生は、「定子が最後に遺した文に対して、11年後に一条天皇が答えた文は時空を超えた究極の恋文だと感じる」と、文学的な観点からお話をされました。
また、今回初めての試みとして、学内に鷹野先生の「書」を展示した特設ギャラリーを設置しました。参加者の皆様には、先生方の解説に加えて、間近で「書」に触れていただく機会となりました。古典を手本に書くことを「臨書」と言いますが、穂苅先生は「臨書」について、「当時の美意識に触れ、昔の人々とコミュニケーションが取れるように感じる」と述べられました。
特設ギャラリーの様子
公開講座会場前にも多数の作品を展示
今回は、現在放映中の大河ドラマ『光る君へ』(NHK)にもフォーカスし、登場する人物が残した書、あるいはその人物が著したと伝わる書についても触れていただきました。現在のように、メールやスマートフォンがない時代、「文」は必要不可欠なものでした。その文1つ1つにも形式があり、紙や色を変えたり花を添えたりと、送る相手のことを考えたやりとりがなされたものです。
講師の先生のお話から、その情景が目に浮かび、時を越えて平安時代の「華やかさ」、「雅さ」に触れた講座となりました。
講師の先生のお話から、その情景が目に浮かび、時を越えて平安時代の「華やかさ」、「雅さ」に触れた講座となりました。
鷹野先生の作品の前で、講師の先生方と文芸文化学科の学生スタッフたち